ちょっとたまには心理学的なことでも書いてみるか。
なんだかんだ、心理院に行って4年目、博士後期課程も半分すぎちまった。
大学で看護学んでたくらいの長さ、心理沼にハマってるわけだ。
学部から心理な人たちは、よく考えたらみんな院に来た時点で先輩なのか。現時点では。
まだまだ歴浅い私だけど、この3年半、教育分析を受け続けて
…いや、治療分析をも含めると、もう人生の半分近く、私はユング派の先生たちにお世話になってるんだけども…
久しぶりに東京に帰って、私は自分自身が変わってしまったのを強く感じたりして。
なにがって言われてもうまく言えないんだけど、事前と事後はもう180度違うでしょ?そんな感じ。
ワタシハ、ワタシダ。
ということが、よくわかってしまったというのか。
…少し脱線してしまったけど。
当事者性の話なのよ。
援助者はさ、どうしても自分が援助する側だって思いがち。その境界線みたいのが大事だったりもするんだけど。自分を守るため、にね。でも過保護も過干渉も違うわけで、ヒトの成長に必要なのは。
境界線を濃くするよりも、援助は相互に作用するもので、そう言う意味では援助者も当事者なんだよっていう意識を持つことが大事なんじゃないかなって。
そもそも心理面接で、はたして人間的成長は必要なのかという議論もあるけれど
私は人生は有機的でダイナミックなものであるし、人間的成長なくして行動や問題の変容は起こり得ないと思っているの。
…認知や行動の変化にも深度があって、人間的成長につながらないものはやっぱりそれは、浅い層を掘るだけで、デブリードメントしきってないと思う。デブリードメントは、デブリードマン、腐った肉を削ぎ落とすことで、きれいな肉を再生させる処置ね。
なおかつ、私はその人間的成長ってもんは、やっぱりそれ自体が、とても賦活的で相互作用のあるものだと思うの。そばにいる人が影響されないわけがない。で、被援助者が人間的成長するならば、援助者も人間的成長を遂げると思うし、そうでなければ、本当の意味での問題変容には至らない。問題変容をどう捉えるかって話もあるけど、すごく大きくみたらさ.....karma、業ってあるよね?
つまりは、
困りごとをどうにかできるようになる=被援助者の人間的成長=援助者の人間的成長
であって
あれ?援助者てほんとに「援助者DEATH」てどでん!としていられるの??て話になる。第三者じゃなくない??て。
科学者ー実践者モデルとか言ったりするけど、なんか鼻持ちならない。その奥に「援助者DEATH」がある。研究は現場に根差したものであるべきだと思うけど、なんか偉そうじゃない?研究というひとりぼっち作業についてはとても大事なモデル。でも、現場に持ち込むと上から目線モデル。
…あんただってさ、正しくないでしょ?近付けばみぃんな狂ってるもんでしょう。なんでギャーギャーそんなこと改めて言うてるかって、教育分析も治療分析も変わらないなって振り返って思うから。
色々事情ありだからね、そうなのかもだけど、色々事情が起こるのが人生じゃんね。なんかしらあるもんでしょう、大なり小なり。
私は本当に、教育分析を受けれていて幸せだな、ありがたいなって思うグラグラな夜。
最初分かんなくてさ、教育分析だから頑張んなきゃ!て謎に頑張った報告してたんだよね。
ちゃんと治療的になってから、ほんと教育的にもなったなぁて思う。自他の境界線を保つためにも、自他の繋がり、重なりをちゃんと見据えるの。
侵入、ね。困ったもんだよ、ほんと。やれやれだよ、まったく。