けっこうに残っているものなんだね、衝撃をうけたこと、というものは。
人身事故車両の二両目に乗ってたことがあるんだけども、そのとき揺れたことだったり、なにより何かかたいものがパシパシと延々と当たる音がしたことを身体は覚えていて。
電車の先頭にのって、ふと怖くなって、胸が痛くなって、息が苦しくなって、気づいた。
ひとが恨みつらみ、だったり、しんどく思ったことを蕩々とはなしてしまうのは仕方がないことだって思えるほどに、残るもの。
でも、それを、だれに、どうやってはなすのがいいのだろう。
カウンセラーは、聴くひと、河合隼雄がいうように『人間理解のプロ』をめざすひと、だから、カウンセラーにはもちろんはなしていいし、カウンセラーとしても聴かせてほしいと思ってる。
でもカウンセラーとして聴いていて、友達にはなすことの難しさを改めて感じたりする。自分も含め、振り返る。
みんな言うんだ、友達にいつまでもはなすわけにはいかないから、って。聴いてもらうのも悪いから、って。
限度があるっちゃあるのだろうけど、
それを言っちゃあおしまいで。
友達ってつらいことも楽しいこともはなすもの、なんだと思う。
楽しいことを共有すること、はもちろんだけど、つらいことをはなす、きく、ことも友情を深める効果がある。
トラウマをかかえていないひとはいない、という前提で。
トラウマにふれたとき、ひとはバウンダリーがあやふやになる。バウンダリー、自他の境界。
あふれちゃうものなんだ。蕩々と話してしまうものなんだ。
あえてトラウマをはなすこともあるだろう、でもたまたまトラウマに触れてしまうこともある。
トラウマの質量とか、そういったものが、カウンセラーレベルか、友達レベルか、とかはあるのかもしれないけど、それをどうやって判断するのだろう。
だれに、どうやってはなすのがいいのか、話を聴いてもらう人の様子だったり、自分なりの決まりごとだったり、で判断するんだろうけれど。
はなすことって不自由だなって。
ほんとうのほんとうには、不自由なことなんだろうか。
はなす、話す、離す。
きく、聴く、効く。
わからないけど、やっぱり聴くひと、になりたいなと思う。自由にはなしてもらうことは、私が自由になることでもあるから。
そのためには、離しておかないと、断捨離しておかないとスペースが、というのはそもそもで強迫的な気もしてくる。
効く、ためには、痛いところを知っておく必要はあるとは思う。
あふれ
そうなもののはなしかた。
公私共に分析をうけずにいられるようになるのは、いつなんだろう。
自由にはなしたいし、はなしてほしいなぁ。